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家系図を作って家族と自分の想いをつなげる方法 vol.2

こんにちは!

家のあかし(家紋・家系図)担当の日下(くさか)です!!

お待たせしているVol.2です!!

今回は、「祖父の見た景色」をおおくりします。

私が家系図を作ったことがキッカケとなり、祖父の故郷へ約25年ぶりに行きました。
祖父や先祖を知るための旅についてお話をしていきますm(_ _)m

そもそも祖父が東京へ上京した理由

すでに他界している祖父は岩手県の南部出身です。
わかりやすくお伝えすると、宮城県気仙沼の西側にある山間の村です。

そんな村から祖父が東京へ上京した理由を、私の父に話を聞いてみました。

父曰く、祖父の小学校の先生との出会いが上京のキッカケだそうです。
その先生は東京から赴任してきた方で、祖父が小学校を卒業するタイミングで東京へ転勤することになります。
祖父の賢さに感心をしてた先生は「日下くんは、ここで骨を埋める人材ではない、東京で活躍して欲しい。」
そう言って祖父を東京へ招き、祖父も応じたそうです。

昭和初期に山間の村から上京した祖父は、先生の知人宅で「書生」としてお手伝いをしながら学問に励み、立派な職業につくことになります。
職業は伏せておきますが、どう頑張ったらその職につけるのか、私には想像もつきません。

結果だけを見れば「幼い頃に恩師と出会い、書生として上京、猛勉強して、東京で立派に生きた人」です。
抽象的すぎる「祖父」という存在に「上京」祖父の人物像を具体的にしていきたくなりました。

いざ東北へ

祖父の人物像、見てきたものや感じてきたものに触れて情報を集めようと、約25年ぶりに祖父の生家を尋ねることにしました。
「東京」という都へ「岩手」の山あいにある村からやってきた祖父は、どのような人だったのだろうか。

祖父の生家には父の従兄弟が住んでおり、今回行くキッカケが出来てとてもワクワクしておりました。
と言いつつも、一人では心細かったので、「ルーツを辿る旅にいきましょう!」と代表の中村を強引に誘い、二人で岩手へ向かうことにしました。

▼車でのルート▼
夕方に東京を出発 → 仙台で休憩 → 深夜気仙沼に到着して1泊 → 岩手の生家へ

出発当日の天候は「台風」でした。来るならこの困難を乗り越えてこい、と言われんばかりの豪雨の中、東北自動車道を駆けました。

生家に到着して見た景色


朝起きて、気仙沼から祖父の家までは小一時間かかりました。
私の第一印象は「山間の自然」です。生家の近くには小川や田畑があり、無駄のない自然の只中でした。

幼い頃、最後に訪れた時に見た風景とあまり変わりがありません。
もう少し広く見えた川や田畑はずっと狭く感じて、駆けめぐれるほどに大きく感じた祖父の生家はとても小さく見えました。
近くにコンビニがなくもないですし、最寄りの駅は家から徒歩2時間半でバスは一日に数本という感じです。

祖父が過ごした大正〜昭和初期には電気やガス、水道などのインフラ整備がされていなかったと想像すると、冬は大変でしょうし生活を送るには厳しい環境だなと思いました。
そんな山間の村から、インターネットもない時代、15歳の少年が親元を離れて東京へ行くことを決断した気持ちは、本当に想像がつきません。

祖父の決断、行動、一つ一つの積み重ねで私の命があると思うと、なんだか不思議な気持ちになりました。
ともあれ、ここが私の知っている先祖、「祖父」の出発点なのです。

親戚との顔合わせ、祖父について

いよいよ親戚との対面、かなり緊張しました。
私と父の従兄弟はコミュニケーションを取ってこなかったため、ドキドキが止まりません。
「立派に大きくなったねぇ!!」
記憶の中にあるおばさんが声をかけてきてくれてホッとしました。
記憶の中と少しも変わらない優しい女性に救われた気分になります。
父の従兄弟がいる茶の間に通してもらい、小さい頃の記憶を引き出しながら昔話をしつつ、祖父や日下家にまつわる情報も聞くことにしました。

親戚曰く、お爺さんの印象は「とても立派で尊敬できる人」ということでした。
祖父は東京で成功した分、生家に家を建て田畑を買い、地元の小学校にはプールも寄贈したという地域新聞を見せてもらいました。
「とても頑固で冷たい人」という私の印象とは逆で、生家や古里のために大きく貢献した温かい人でした。

田舎のご馳走


一通り話しが終えると、叔母さんがお昼ご飯を用意してくれました。

刺身、炊き込みご飯、お吸い物、漬物、煮物。

とてもほっこりする田舎の味で優しかったですし、気仙沼が近いということもあり、刺身もとても美味しかった。
私たちのために駆け回って用意してくれたご飯は、本当のご馳走でした。

曾祖母が二人?


仏間を案内してもらいました。
そこには先祖の写真が並んでいて、顔似てる人いないかなぁ、と写真を眺めましたが、あまり似ていなかったのが少し残念です。

祖父には母親が二人います。
祖父は長男として生まれましたが、その後、産みの母とは死別していたそうです。
写真を見るは初めてでした。
祖父の気持ちを考えると、なんだか複雑な心境になりました。

余談ですが、家系図を作っていると死別して再婚している方をみることがあります。
当時、医療も発達していないですし、戦争も当たり前の時代ですので、当時の死生観、家族観というものは、現代のそれとは全く違うものだったでしょう。
こういった社会学的な考察もしていきたいと思うキッカケとなりました。

親戚とのはなし

父の従兄弟の娘さんが駆けつけてくれて話を聞くことが出来ました。
僕との続柄は「ハトコ = 再従兄弟」に当たる人物です。
子供を授かり、よく実家の様子を見に来ている来ているようで、今も「日下家」が息づいているのが嬉しかったです。

私が「当時「光GENJI」というジャニーズのポスターを部屋で見た記憶がある!」と伝えると、
「それは姉ちゃんの方 !!よく覚えてるねー」とハトコに言われて嬉しく思いました。

記憶の情景と重ね合わせていくと、台所にあるハエ取り紙もいまだに健在ですし、盆踊りをした近くの広場もそのままでした。
庭でやったBBQの話、小さい頃落ち着きがなくてヤンチャな私の話、実際に行ってみると意外と覚えていることがスラスラ出てきて驚きました。
この土地での生活の話などを伺い、祖父の生家の理解が深まってきているのを感じて楽しくなってきました。

日下家の先祖は「博打打ち?」

日下家がなぜ日下なのか訪ねてみましたが、答えは出てきませんでした。
わかったことは、祖父の生家は分家で、他にも日下家が存在しているということ。
本家とは親交がないので尋ねられませんでしたが、話を聞いていると、どうやら近くの金山で何かをしていたようです。

岩手県の金山について調べてみると、岩手県の南部、村の近くには金山があったそうです。

なんと、そこで賭博場を開いて一儲けしたとかしないとか…ちょっと心あたりがあるのでドキッといたしましたが、血がつながっているんだなと思い親近感がめちゃくちゃ湧きました!!

戸籍以上の情報を求めてお寺へ


歩いてすぐのところに菩提寺があるので、お墓参りに行きました。
菩提寺には過去帳と呼ばれる住人の管理記録が残っているケースがあります。簡単に言えば、江戸時代の戸籍的なものです。
残念ながら住職不在のお寺さんで「過去帳の管理はわからない」とのことでした。住職不足の現代では仕方ないと早々に諦めることにしました。

日下家の本家と分家が並んでお墓があり、同じ家紋があるのを確認しました。
皆、元を辿れば同じ先祖ですが、代を重ねるごとに親交が薄れていくと考えると、お墓の距離は近いのになぁ…と寂しい気持ちになりました。

東京へ帰省

あっという間に時が経ち、お別れの時間がやってきました。
生家を守ってくれている父の従兄弟、おじさんは一度脳梗塞で倒れていて、上手くしゃべることが出来ない中、一生懸命に話をしてくれました。
そして、私の父に全然会ってないということを伺い、私は「父とまた会いに来る」と約束をしました。
数時間しか話していない遠縁の親戚との別れ際、なんだか涙が出てきました。
自分自身ここに書ききれないことを色々感じたんだと思います。

祖父が大事にしてきた、岩手の故郷。
東京生まれ東京育ち、3代目の私にも、もう一つ故郷が増えたと実感しました。

未婚の私ですが、もし子供を授かることがあれば、今回の話を記録に残して沢山聞かせて伝えたいですし、連れて行きたいと思います。

バックミラー越しに小さくなっていく父の生家、涙で曇るメガネ。横でニヤニヤする代表を乗せ、安全運転で東京へ帰省しました。

祖父に思うこと

祖父が、具体的にどのような想いや出来事があったのか知る事はできませんでした。
ですが、今回の旅で祖父の立場に立って想像することは出来ました。ほんと、ただ尊敬することしか出来ません。

祖父が東京で築きあげた暮らしのレール上に私がいて、「東京生まれ東京育ち」の私は苦労することのない暮らしを甘受していると実感することになりました。

祖父の苦労に気づかず、祖父が生きているうちに上手くコミュニケーションを取れていなかった私が残念です。
ですが、今は家族の苦労に気がついて、コミュニケーションを取り、自分の人生の活力にできている実感があるので、本当に幸せです。

故郷への旅での思い

祖父の故郷で私が見たり感じたことは以上です。
家系図を作るだけでは、絶対に感じられない「ふるさと」体験となりました。

故郷の岩手から東京へ、タンポポの種ように飛んできた祖父。
「日下」という種は、風が運ぶのではなく、先祖の想い、志、行動で、私や家族がここまで育むことができたんだと実感するようになりました。

口数が少ない祖父の人物像を思い込みで勘違いしていましたが、祖父の歩みや実績を収集して、想像する中、心で祖父と対話することが出来たと思います。

生前の祖父は色々と「背中で語った」はずですが、孫の僕はその「背中」に何も感じませでした。

もし、生前に家系図を作っておけばコミュニケーションをとるきっかけになっただろうし、
僕の家族にそういう昔話をする風習があれば祖父の話をいろいろと聞いてみようと思ったかもしれません。

けれど「なかった」ため、事業を立ち上げるキッカケや意味をみつけられたことに感謝しています。

家系図サービスを進化させて、もっと広めていく決心ができる旅となりました。

ありがとう、おじいちゃん。

次回は、「家系図を作るのに実践的な内容」や、これから「青い鳥の家系図」をどうしていくか、「日本を旅する日系フランス人との出会いの話」を書いていきます。

今後とも宜しくお願いします!

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